幻の葛尾村になる前に 第二部 (6)「春のお彼岸」

 葛尾村を案内してもらった3月21日は春のお彼岸であった。仮設集会所の前で白岩さんを待っていると、村人が「今日はお彼岸だから葛尾は大賑わいだよ」と声をかけてくれる。
 峠を越えて最初に見えてくる集落は上野川で、街道から斜面に広がる墓地に向かって村人が坂を上る。ふと見るとめいめいが色鮮やかな花を手にしているので、白岩さんにあの花は何ですかとたずねてみた。「福島は今の季節花がないからね、ああやって作りものの花を供えるんです」と教えてくれた。四国出身だから、おそらく今頃はいろいろな花がもう咲いているだろう。

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 きびきびと立ち働き墓参りをする姿に心は私の故郷に飛び立つ。しかし、彼岸のイメージは結べなかった。高校卒業後一度も彼岸の時季に故郷に帰ったことがない。だからどんな行事が行われるのかは全く知らないのだ。都会に住めば西洋の節句に目がくらみ、誰もがバレンタインだ、イースターだ、ハロウィンだと何ヶ月も前から気もそぞろになる。故郷に住むことと故郷を遠く思うことには大きな違いがある。都会に移り住めば、せいぜいお盆に帰省するぐらいで、故郷の季節も節句も雲散霧消してしまう。

 しばらく街道を降りていくと野川集落が現れる。白岩さんのお宅を訪ねると、庭先に湧き水が池をなし日を照り返して春のせせらぎを聞かせてくれる。枯れ草の間から可憐な姿を見せてくれたのが、白と紫のクロッカス、見慣れない花があったのでたずねると福寿草だという。枯草の中に黄色い花が鎮座するのは何とも誇らしげで陽の光を浴びて春を告げている。

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 彼岸とは三途の川ではなく煩悩を乗り越えた涅槃の岸辺だと聞く。さらに煩悩が増えていく私にはせめて此岸の花を愛でるしかない。

 

幻の葛尾村になる前に 第二部 (5)「水の記憶」

 今回の訪問は、葛尾村の昔話や、かつて村の子供たちがどのように遊んでいたのか、どんな楽しみがあったのかを伺い、できれば文章に起こしたり、昔話を紙芝居にしたり画集にしたいと思って、おばちゃまたちに集まっていただけないかと松本操さんにお願いをしてあったものです。
 お話を伺い始めてほどなく自らの浅はかさを思い知らされることとなります。
小学生だった頃のことをお話していただけますか?どんなことが楽しかったですか?と聞いたとき、前々回のブログで伊藤さんが紹介してくれた水浴びの話。夏になると男の子も女の子もみんなすっぽんぽんになって葛尾川に飛び込んで遊んだ話、おじちゃんもおばちゃんもみんなが破顔一笑、なんとものどかな山里の夏の午後。悲しいことに、今は子どもたちが飛び込んだ川辺は放射能で汚染され、子どもたちも村から一人残らず消えてしまいました。

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 ひとしきり笑い声が響き渡るとみな一様に黙り込んでしまいました。一人のおばちゃんが静かに話し始めます。
「おれの家は兄弟が7人いた。学校さ終わると家の手伝いが待ってる。おれの仕事は水汲み。家族が10人以上いるから、何度も何度も水を汲む。にいちゃんたちはみんな畑仕事の手伝い。辛かった、本当に毎日辛かった。だからよ、楽しいことなかったかって聞かれても、何も思い出せねえ」

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 ものも知らず、人の心もわからない、何と未熟かとわが身を恥じた。自分に幼い頃楽しい思い出があるから、他の人にも同じように楽しい思い出があるだろうと勝手に決めこんでいたのです。
 「そうだ、そうだ」とみながそれぞれ辛い思い出をたぐり始めた。「今になってみると、そんなこともなんだか楽しかったように思い出すけどけど、辛いことの方が多かったんだよ」と一人のおばちゃんがにこにこと私をたしなめてくれたことが、かえって心の救いとなりました。

 私の父は酔っ払うと、五木寛之の「人は生きているだけで価値がある」の言葉を繰り言のように何度も言ってはうんうんと自分で肯いていました。今は酒を飲めなくなったのでこの言葉を口にすることはなくなりましたが、その頃はなぜ父がこの言葉を支えにしているのかはよく分かりませんでした。

 どんなに辛くとも私たちはただ耐えていかなければならないことも多いです。いいことなんか何一つないのにどうしてと問われるかも知れません。それでも、いつの日か、「あの時は本当に辛かった」と言える日が来るかも知れません。楽しかったことも泣きじゃくるほど辛かったことも、そのありのままを誰かに語ればいいのでしょう。我が身にその言葉を引き寄せて「そうですよね」と肯いてくれる人がいれば小さな幸せが生まれます。「人は生きているだけで価値がある」とは「長く生きてきたことを誰かに語るだけで価値がある」という意味もあるのでしょうか。

 いつかこのおばちゃんたちの年齢まで生きのびることができれば、同じようにさらりと人生を語れる日は来るのでしょうか、いやいや苦労も足りない私にはとても。この夏はまたこのおばちゃんたちに会いに行って、この度は弟子入り志願をしてみようかと考えています。

 


杉村裕史⌘

 

 

幻の葛尾村になる前に 第二部 (4)「ほんとの空」

三春ダム湖畔から遙か遠くに雪を頂いた安達太良連峰を望む。

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「ほんとの空」

 3月21日に朝早くから葛尾村をゆっくりと案内してくださった白岩寿喜さんには本当にお世話になった。また多くのこと、まずは葛尾村を取り囲む山や峰の名前を教わった。街道のうねりに沿って次々と見えてくる山と、その山がどこから見ると最も美しいかも手ほどきしてくれた。葛尾村はこれでまだ二度目だが、村の地理を立体的に、また各集落の立地やその特徴も頭に入ってくる。白岩さんの説明は的確で、古里の山や川、地の利や風景なにより里の四季を知り尽くしている。言葉の端々に葛尾を愛している様子が伺えて、それにつられてだろう、なんだか私自身も葛尾村をだんだんと好きになっていく感じがしたものだ。
 葛尾村を後にして三春町に戻る途中で、船引(ふねひき)という町に差し掛かると、白岩さんはこの辺りでお昼を食べましょうと地元の蕎麦屋「べに花」に案内してくれた。蕎麦粉10に外1のしっかりとうたれた平打ちの田舎蕎麦、大好きな蕎麦である。葛尾の空を思いだしながらいただいたこの蕎麦の風味は一生忘れることはないものとなった。

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 船引から三春に戻る途中に三春ダムにさしかかった。雪山が遠くに見えたので白岩さんにあの山は何ですかと聞いたら、「あれが安達太良連峰です。『智恵子抄』の」

 ああっ、あれが安達太良か、と感動して思わず車から降りて写真を撮ったのが冒頭の写真である。あまりに遠くその優しい姿をもっと近づいてみたいと思った。福島のみなさま、安達太良連峰はどこから見るのが最も美しいですか?またどの季節がおすすめですか?

 そうだ、『智恵子抄』の最後のこの名前がでていた。遙か彼方の安達太良連峰ではあったが、「ほんとの空」を見ることができた。福島の空はいつもこんなに澄み切ってきれいなのだろうか?以下wikiからのコピペですがご紹介します。

   ~あどけない話~

智恵子は東京に空が無いといふ。
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間(あいだ)に在るのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとうの空だといふ。
あどけない空の話である。

高村光太郎智恵子抄

幻の葛尾村になる前に 第二部 (3)「伊藤さやかさんのメッセージ」

取材協力をしてくれた法政大学三年生の伊藤さやかさんからメッセージがとどきましたので全文紹介します。

 

 まずびっくりしたのは、みなさんとっても訛っているのに「今日(2015.3.20)はクリニックの日だがらぁ」と病院ではなく"クリニック"と言っていたこと…笑
挨拶する間もなく、人が集まると会話がどんどん弾んでいた。

 小さい頃の楽しかった思い出を聞くということで、自分の小さい頃の思い出を振り返って想像していたのだが(公園の遊具で遊んだり)、一番最初に「あなたたちはセブンの時代でしょ」と言われ、コンビニに行けばなんでも手に入る今の時代からは全く想像もできないような幼少の記憶を話して下さった。
 まず食べ物。せっかく作ったお米は役人に取られてしまった。だから野っぱらのヨモギタンポポ、土手の蕗など食べれるものはなんでも食べたそう。
 楽しいことと聞かれてもパッと思い浮かぶことは中々出てこないような厳しい時代だったことがお話を伺ってる中で段々と分かってきた。
 でも、夏には男女関係なくみんなで川にすっぽんぽんで飛び込んだり、冬には木板でソリ遊びをしたりと、とっても元気なおてんば娘たちだったそう。
 「学生さんたちには想像もできないような厳しい時代だったけど心は豊かだったんです」と真っ直ぐ目を見て言われてドキっとしてしまった。

 「厳しい時代もいつかきっと良くなる。」
 昔のお話を伺ったあとのこの言葉にはとてつもない説得力があった。
 先は全く見えないけど放射能で苦しむ福島県もいつかきっと良くなる日が来るんじゃないかと思えた。

 そして3.11のお話を伺った。
 2011.3.11に地震が発生し、翌12日に原発事故が起きた。原発事故から2日後の14日にやっと避難したそう。
 知人から葛尾村は村長さんが避難を呼び掛けて全村避難をしたところだと聞いていた。以下コピペだが、

 

❮NHK 証言記録・東日本大震災 2013.3.17.
東京電力福島第一原発から20キロ~30キロ圏内に位置する福島県葛尾村地震の被害はほとんどなく、また、国からも県からも避難指示は出されていなかった。にもかかわらず、地震からわずか3日後に、全村避難を決定する。それは、原発事故を重くみた村による独自の判断だった。❯
と記されている。

 

 当時、「"原発が爆発した"なんて言われても危険性がいまいち分からなかった」とのことで、全村避難とは言っても2、3日で村に戻れるものだと思っていたそう。月日が流れ、「1年仮設にいれば戻れるべと思っていたら4年も経っちまったよ」と笑いながらでも悔しそうに話して下さった。
 避難中はみなさんバラバラにあちこちを何箇所も点々としたそう。今はみんなで1箇所の仮設に集まれてよかった、一人でポツンといるのは嫌だと言っていた。
 そしてみなさん口を揃えて葛尾村に戻りたいと言っていた。「帰りたいけど他の人からみたらバカだと思われてんだべなあ」とまた笑いながら悔しそうに言っていた。村を出ていけば後ろ指をさされ、残れば叱責される。自分たちの生まれ育った村なのに住むことはおろか帰ることもできない。こんなことがあっていいはずがない。

 東北の人は土着性が強い。自分たちの生まれ育った土地を心から愛している。私自身そうなのだ。東京に住んでから余計に故郷の二本松が好きになった。だから避難して村の外に住んでいる方々も帰りたくて仕方がないだろうし恋しい気持ちはどんどん増すんだろうなあと思ったりする。
 綺麗な川が流れ、桜に紅葉、四季を感じられる自然に溢れた土地。無農薬でも大丈夫だった自給自足できる土地。それが葛尾村
これからはそれに加えて、「若い人たちが生活を養っていける場所になんないといけない」と言っていた。
 故郷に帰れず悲観しているだけではないのだ。どうしたら人が溢れる村になるのか、夢を見ながらも真剣にわたし達に話をしてくれた。このことがとっても嬉しくて、こういうことをしたいんだって強い想いを持った人達はすごくかっこよく見えた。私にできることがあるならお手伝いしたい、もっとお話を聞きたい、葛尾村に行ってみたいと思わせてくれた。

 東日本大震災原発事故から4年が経ち世間の関心はこれからますます薄れる。
  まだ東北東北言ってんの?もう大丈夫なんでしょ?なに暑苦しいこと言ってんの?って同い年ぐらいの人達には思われるかもしれないけど、私はこれからも本当のことを知りたいし知ったことは伝えていきたい。だからまた皆さんのお話を伺ってみたい。
 福島県は見えない敵とこれからも戦っていかなくてはならない。私たちの世代が無関心でどうする。葛尾村のおじいさんやおばあさんのほうが未来を真剣に考えているじゃないか。

幻の葛尾村になる前に 第二部 (2)「愉快なおばちゃんたち」

 http://youtu.be/1ymoiZgTsXI

すみません、動画がアップできていないようです。しばしお待ちを。

3月20日午後、三春町斎藤里内仮設住宅に避難されてる葛尾村の村一番をかつて競った美人おばちゃんたちに集まってもらいました。ここは仮設住宅の集会室、普段はおばちゃんたちが籠編みなどの手芸作業にいそしむ格好の茶飲み場所です。2時間あまり撮影させてもらいましたが、小生の編集能力不足でどうにか1分あまりの出だし部分だけアップすることができたのでご紹介します。

 テーブルに6人のおばちゃんたちが並んでいます。壁際の椅子に腰掛けているのが葛尾村の重鎮松本まさおさんと、その右側に葛尾支援グループ代表でありまた、後述する「三匹獅子」の保存を手がけている篠木兵(いさむ)さんです。

 おばちゃんたちの話は無類の面白さです。時には何人もが一遍に話して収集が着かなくなることもあるけれど、がはがはとみんなで大笑いして愉しい時間が過ごせました。その一方、戦前の話や子どもの頃の話になると、時に、みなが一様に押し黙るような苦労話もあり、しんみりすることも多々ありました。これについても後に報告します。

 テーブルの右手で背中を見せているのが今回取材の協力をしてくれた大学生。手前が武蔵野美術大学の古川さん、向こう隣は法政大学の伊藤さんです。二人とも福島出身で小生の教える大学の学生さんです。わざわざ来てもらったのは他でもない、小生が四国徳島出身ゆえ、おばちゃんたちの話すことはほぼ半分くらいしか分からないので、二人に通訳として取材協力してもらったわけです。次回は伊藤さんの文章を紹介します。

 

幻の葛尾村になる前に 第二部 (1)「コミュニテイ・ブレイクダウン」

福島では時間は流れない、重苦しく積み重なっていく。降り積もり静かに層をなしていくがなかには異物のように結晶していくものもある。

 三春に着いた3月19日夜の飲み会は重い話題から始まった。

「この頃どうも近所の人に疎まれているような気がする」

「早く言やあ<うざい>と思われているってことだ」。

穏やかではない。いつ頃からですか?と訊ねる。

「そうさな、去年ぐらいからかな」

「ここに来て最初の頃はずっと近所の人には優しい声をかけてもらってありがたかった」

「それがよ、ここんとこ雰囲気が変わってきた」

「何か言われたってわけじゃないんだよ、ただそう感じるからさ、犬の散歩も夜明け前にするんだ」

この3月11日で震災後4年が過ぎた。震災後集団避難や親戚の家に身を寄せるなど各地を転々としてようやく夏頃仮設住宅に入れた。間もなく仮設住宅暮らしが4年目を終えることになる。この4年目が想像を超えた時の重みとなって避難民にのしかかっている。

「俺が町の人だったら同じように思うだろうな」

「補償金もらって楽してるんじゃないのか、と思われてる気がしてな」

故郷には戻れない、仮設を出たいけれど資金がない、災害公営住宅に移りたくても18歳未満の子どもが家族にいなければ申し込みさえできない。こんな身動きのできないもどかしさで身もだえしている。来年には帰村宣言が出されるかも知れないが、故郷はまだ空間線量が高くて帰村しても住居まわりしか動けず、田んぼも畑もできゃしねえ。

そもそも仮設住宅は「応急」仮設住宅という名で作られている。基本は2年、せいぜい3年、それを超えた4年という年月が、避難民の我慢に限界をもたらし、仮設を受け入れた地域にストレスを感じさせている。私たちは所得税の申告で、所得税額に2.1%をかけた復興特別所得税額を徴収されている。集まるだけ集めて置いて、実は使えなかった復興予算が7兆円も余りましたなどと政府は白々しく言う。本当にはらわたが煮えくりかえる。自分たちは政党助成金でぬくぬくしながら、福島の避難民を不安と恐怖に陥れ知らんぷりを決め込む。みなさんは「棄民」という言葉をご存じだろうか?福島の人はなかなか本音を語らない、我慢強いと言われるがその福島県民に我慢の限界がそこまで来ているのだ。

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幻の葛尾村になる前に(第一部了)

葛尾村には水量豊かな川が流れている。野川は葛尾川に合流して高瀬川渓谷となり太平洋に注ぐ。高瀬川渓谷はどこか、かつて家族と訪れたことのある奥入瀬渓谷の趣があった。渓流に取り残された流木に腰掛けて、少しだけ両手に水をすくい飲んだことを思い出す。松本操さんは、この流れのとことどころにある毎年写真をという絶景ポイントに誘ってくれた。沢に降りて川上を見ると羽が灰色の鷺が川に覆い被さるように張り出した樹木の下で静かに羽を休めていた。操さんは、昔は青鷺なんか見なかったんだけどな、地球温暖化のせいかねなどとと教えてくれる。この川を子どもたちがはしゃぎながら走り回る日は来ないかも知れない。操さんは何より子どもたちをこの渓流に誘い、川をせき止めヤマメやニジマスを放流して手づかみでつかませる夏遊びをもう一度やりたいという望みをもっている。清流のように見えても水は放射能で汚染されていてしばし恐怖を感じる。住宅まわりを熱心に除染しても、川そのものを除染したという話は聞いたことがない。こんな川に誰がしたのか。水は命の根源だ。原発事故はこの村人の命の根源を汚染した。そんな村に政府は帰還せよと村人に迫ろうとしている。自分をPRするために被災地を訪問するだけではなく、政府も官僚も東電役員も旧役員も逃げてばかりいないで一年でも住んでみたらどうか?当事者能力のない原子力村の村民が葛尾を廃村へと強制移住させようとしていることを忘れてはならない。

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村人がいなくなっても川は流れ続ける。この川のせせらぎに村人が集い子どもたちがはしゃぎ回る姿を思い浮かべながら第一部を終えたいと思う。

第二部は近々再開したいと考えているが、葛尾村の伝統や生活を村のおじいちゃんおばあちゃんに語ってもらい、身を引き裂かれながら村を離れる人びとの心の置き所になるような書ができればと考えている。もし可能であれば、「葛尾村聞き語り」シリーズのように編集して、何か面白いものがあれば、美大の学生さんたちと一緒に紙芝居にでもしたてて残せたらと思う。このブログをご覧下さっている方、どうかアイデアをお寄せ下さい。筆者は、来年2月に福島出身の何人かの学生さんたちと聞き語りの収録にお邪魔できればと夢見ています。何しろ、おじいちゃんおばあちゃんの語る福島弁は若い福島人にも分からないかも知れないからで、筆者は若者の通訳が必要としているからだ。