幻の葛尾村になる前に 第二部 (3)「伊藤さやかさんのメッセージ」

取材協力をしてくれた法政大学三年生の伊藤さやかさんからメッセージがとどきましたので全文紹介します。

 

 まずびっくりしたのは、みなさんとっても訛っているのに「今日(2015.3.20)はクリニックの日だがらぁ」と病院ではなく"クリニック"と言っていたこと…笑
挨拶する間もなく、人が集まると会話がどんどん弾んでいた。

 小さい頃の楽しかった思い出を聞くということで、自分の小さい頃の思い出を振り返って想像していたのだが(公園の遊具で遊んだり)、一番最初に「あなたたちはセブンの時代でしょ」と言われ、コンビニに行けばなんでも手に入る今の時代からは全く想像もできないような幼少の記憶を話して下さった。
 まず食べ物。せっかく作ったお米は役人に取られてしまった。だから野っぱらのヨモギタンポポ、土手の蕗など食べれるものはなんでも食べたそう。
 楽しいことと聞かれてもパッと思い浮かぶことは中々出てこないような厳しい時代だったことがお話を伺ってる中で段々と分かってきた。
 でも、夏には男女関係なくみんなで川にすっぽんぽんで飛び込んだり、冬には木板でソリ遊びをしたりと、とっても元気なおてんば娘たちだったそう。
 「学生さんたちには想像もできないような厳しい時代だったけど心は豊かだったんです」と真っ直ぐ目を見て言われてドキっとしてしまった。

 「厳しい時代もいつかきっと良くなる。」
 昔のお話を伺ったあとのこの言葉にはとてつもない説得力があった。
 先は全く見えないけど放射能で苦しむ福島県もいつかきっと良くなる日が来るんじゃないかと思えた。

 そして3.11のお話を伺った。
 2011.3.11に地震が発生し、翌12日に原発事故が起きた。原発事故から2日後の14日にやっと避難したそう。
 知人から葛尾村は村長さんが避難を呼び掛けて全村避難をしたところだと聞いていた。以下コピペだが、

 

❮NHK 証言記録・東日本大震災 2013.3.17.
東京電力福島第一原発から20キロ~30キロ圏内に位置する福島県葛尾村地震の被害はほとんどなく、また、国からも県からも避難指示は出されていなかった。にもかかわらず、地震からわずか3日後に、全村避難を決定する。それは、原発事故を重くみた村による独自の判断だった。❯
と記されている。

 

 当時、「"原発が爆発した"なんて言われても危険性がいまいち分からなかった」とのことで、全村避難とは言っても2、3日で村に戻れるものだと思っていたそう。月日が流れ、「1年仮設にいれば戻れるべと思っていたら4年も経っちまったよ」と笑いながらでも悔しそうに話して下さった。
 避難中はみなさんバラバラにあちこちを何箇所も点々としたそう。今はみんなで1箇所の仮設に集まれてよかった、一人でポツンといるのは嫌だと言っていた。
 そしてみなさん口を揃えて葛尾村に戻りたいと言っていた。「帰りたいけど他の人からみたらバカだと思われてんだべなあ」とまた笑いながら悔しそうに言っていた。村を出ていけば後ろ指をさされ、残れば叱責される。自分たちの生まれ育った村なのに住むことはおろか帰ることもできない。こんなことがあっていいはずがない。

 東北の人は土着性が強い。自分たちの生まれ育った土地を心から愛している。私自身そうなのだ。東京に住んでから余計に故郷の二本松が好きになった。だから避難して村の外に住んでいる方々も帰りたくて仕方がないだろうし恋しい気持ちはどんどん増すんだろうなあと思ったりする。
 綺麗な川が流れ、桜に紅葉、四季を感じられる自然に溢れた土地。無農薬でも大丈夫だった自給自足できる土地。それが葛尾村
これからはそれに加えて、「若い人たちが生活を養っていける場所になんないといけない」と言っていた。
 故郷に帰れず悲観しているだけではないのだ。どうしたら人が溢れる村になるのか、夢を見ながらも真剣にわたし達に話をしてくれた。このことがとっても嬉しくて、こういうことをしたいんだって強い想いを持った人達はすごくかっこよく見えた。私にできることがあるならお手伝いしたい、もっとお話を聞きたい、葛尾村に行ってみたいと思わせてくれた。

 東日本大震災原発事故から4年が経ち世間の関心はこれからますます薄れる。
  まだ東北東北言ってんの?もう大丈夫なんでしょ?なに暑苦しいこと言ってんの?って同い年ぐらいの人達には思われるかもしれないけど、私はこれからも本当のことを知りたいし知ったことは伝えていきたい。だからまた皆さんのお話を伺ってみたい。
 福島県は見えない敵とこれからも戦っていかなくてはならない。私たちの世代が無関心でどうする。葛尾村のおじいさんやおばあさんのほうが未来を真剣に考えているじゃないか。