幻の葛尾村になる前に 第二部 (5)「水の記憶」

 今回の訪問は、葛尾村の昔話や、かつて村の子供たちがどのように遊んでいたのか、どんな楽しみがあったのかを伺い、できれば文章に起こしたり、昔話を紙芝居にしたり画集にしたいと思って、おばちゃまたちに集まっていただけないかと松本操さんにお願いをしてあったものです。
 お話を伺い始めてほどなく自らの浅はかさを思い知らされることとなります。
小学生だった頃のことをお話していただけますか?どんなことが楽しかったですか?と聞いたとき、前々回のブログで伊藤さんが紹介してくれた水浴びの話。夏になると男の子も女の子もみんなすっぽんぽんになって葛尾川に飛び込んで遊んだ話、おじちゃんもおばちゃんもみんなが破顔一笑、なんとものどかな山里の夏の午後。悲しいことに、今は子どもたちが飛び込んだ川辺は放射能で汚染され、子どもたちも村から一人残らず消えてしまいました。

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 ひとしきり笑い声が響き渡るとみな一様に黙り込んでしまいました。一人のおばちゃんが静かに話し始めます。
「おれの家は兄弟が7人いた。学校さ終わると家の手伝いが待ってる。おれの仕事は水汲み。家族が10人以上いるから、何度も何度も水を汲む。にいちゃんたちはみんな畑仕事の手伝い。辛かった、本当に毎日辛かった。だからよ、楽しいことなかったかって聞かれても、何も思い出せねえ」

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 ものも知らず、人の心もわからない、何と未熟かとわが身を恥じた。自分に幼い頃楽しい思い出があるから、他の人にも同じように楽しい思い出があるだろうと勝手に決めこんでいたのです。
 「そうだ、そうだ」とみながそれぞれ辛い思い出をたぐり始めた。「今になってみると、そんなこともなんだか楽しかったように思い出すけどけど、辛いことの方が多かったんだよ」と一人のおばちゃんがにこにこと私をたしなめてくれたことが、かえって心の救いとなりました。

 私の父は酔っ払うと、五木寛之の「人は生きているだけで価値がある」の言葉を繰り言のように何度も言ってはうんうんと自分で肯いていました。今は酒を飲めなくなったのでこの言葉を口にすることはなくなりましたが、その頃はなぜ父がこの言葉を支えにしているのかはよく分かりませんでした。

 どんなに辛くとも私たちはただ耐えていかなければならないことも多いです。いいことなんか何一つないのにどうしてと問われるかも知れません。それでも、いつの日か、「あの時は本当に辛かった」と言える日が来るかも知れません。楽しかったことも泣きじゃくるほど辛かったことも、そのありのままを誰かに語ればいいのでしょう。我が身にその言葉を引き寄せて「そうですよね」と肯いてくれる人がいれば小さな幸せが生まれます。「人は生きているだけで価値がある」とは「長く生きてきたことを誰かに語るだけで価値がある」という意味もあるのでしょうか。

 いつかこのおばちゃんたちの年齢まで生きのびることができれば、同じようにさらりと人生を語れる日は来るのでしょうか、いやいや苦労も足りない私にはとても。この夏はまたこのおばちゃんたちに会いに行って、この度は弟子入り志願をしてみようかと考えています。

 


杉村裕史⌘