幻の葛尾村になる前に(11) 女たちの原風景

話は葛尾村の取材を終えた午後にさかのぼる。集会所で籠編みをしていたおばちゃんたちの話に混ぜてもらった。とりとめもない話の最中に窓の外を見れば、村の無料バスが到着して何人かのおばちゃんたちが降りてくる。「○○ちゃん、今日も村に帰ってたんだね」。「皆さんは除染がうまく進んで何年か後に帰れるようになったら葛尾村に帰りたいですか」と筆者。「帰りたいって言っても、まもなくここには住めなくなる、子どもがいねえから復興住宅には住めねえ、かといってこれから家は建てられねえ、戻りたいんじゃなく、戻るしかないんだよ」、「旦那が帰りたいって言うからね」、「何だって男は先祖伝来の土地を守らなきゃって、こだわるかね」などと屈託がない。聞けばおばちゃんたちは大体が葛尾村出身で、中には近隣の都路や津島から嫁入りした人もいるとのこと。目から鱗が何枚もバサリと落ちた。そうか、嫁に来たと言うことは、おばちゃんたちはそれぞれが実家を持ち、そこが忘れることのない原風景であり、夫の原風景とは違う景色を重ねていたのだ。特に田舎では、女は姓を捨て、実家を去り、家族とりわけ両親と別れて他人の家に嫁ぐのである。これで夫に愛されなければ、妻はよりどころを失い漂流する。生まれた子が生きていくにはいつの日か両親の元を出て他人と交わらなければ生きてはいけない。長男には相続して守るべき家があるが、嫁にはその責務が理解できないかも知れない。むしろ女たちは男たちの死にものぐるいの保守とは反対に、まごうことなく<アナーキー>である。男たちの虚構(フィクション)など眼中にない。そうか、そうだったのか、と筆者も思い知らされた。女たちは男の虚構をよそに、女同士でおしゃべりして、心を通わせ同情を寄せ合って見事に生き抜いている。集会室にさわやかな風が吹き抜ける、どうやら夕闇が近づいてきたようである。

 

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仮設住宅がそのまわりに点在する三春ダム。この風景にどれだけ心が救われたか知れない、と呟く人がいた。どこかふる里の風景に通ずるものがあるのだろう。

 人はなぜか満ち足りた日々を思い起こそうとはしない。今の私が惨めになる、からだろうか。むしろ、辛い思い出しか残らない原風景が思いもかけず突然甦ってくることがある。思い出したくないのに思い出してしまう。なぜか甘酸っぱく感じられる記憶と共に。そんなとき、なぜだかホッとため息をつくこともある。戻りたくはない、しかし、できれば人生をもう一度やり直せればなどと、と思うからかもしれない。