幻の葛尾村になる前に(10) 原風景

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動物行動学者ローレンツはハイイロガンの卵を人工孵化してガチョウに育てさせようとした。ガチョウが孵化させた雛はガチョウの親の後について歩いたが、ローレンツが自分の前で孵化させたところ、その雛はローレンツを追いかけるようになった。最初に見た動く物体を親と見なす習性を「刷り込み(インプリンティング)」という。

看護師さんは出産を終えた直後の母に生まれたばかりの子供をまず抱っこさせる。母と子の初対面だ。このとき子に母が刷り込まれるのだろうか?子にとって母は特別の存在である。子宮内で母と一つにつながり、身も感情も一体である。父のつけいる隙はみじんもない。かつてただ精子を提供したに過ぎない。身二つになっても子は母を追いかける。母は子の原風景であり、母と子は同じ宇宙を生きている。今生の別れに際しても子は母を思う。父はまず脇役である。

筆者は小さな町の生まれではあるが、教員である両親の転勤で生まれてすぐに山村に移り住んだ。3歳になるまで父母と祖父の4人で貧しい暮らしを続けたようだ。還暦を迎えようとしている現在、終の棲家としてその山村のあばら屋を選ぼうとしている。もちろん妻は「スーパーもない、病院もない、何もない」村には住めないから老後は一人で住んでくれと言う。むべなるかな。何のことはない、そのあばら屋が筆者の原風景、それだけのことだ。

東京で暮らすようになって40年近くになり、その間5回引っ越しをした。生まれた町には戻りたくないからと上京したにもかかわらず、東京を終の棲家とはしたくないからと考えあぐねたあげくにあの山村を選ぶしかないのは、冒険者を夢見て故郷を旅立とうとした青春時代の自分を思い起こすと、いささか情けないなとも思う。

葛尾村の男たちの誰もが村に帰りたいと思っているかと言えばそうではない。現実を見れば帰れないと思っている人も、どうしても帰りたいと思っている人もいる。共通しているのは「何で俺たちが村から離れざるをえなくなったのか」という理不尽さや、哀しみ、怒り、悔しさなどが解きほぐさないほどない交ぜになった複雑な感情である。その心の奥底には刷り込まれ、染みついた原風景としての葛尾村がある。ひやりとした空気、四季折々の空の色、懐かしい香り、せせらぎの音、こよなく愛した野菜や果物、何よりもごくごくと喉を鳴らして飲んだ水。これらは身体と一体になった小さな宇宙であり、まさに命そのものであろう。