幻の葛尾村になる前に(13)村々合併

葛尾村を幻に終わらせないための案がもう一つある。これは葛尾村と、隣接しない限界集落を合併させる案だ。平成の大合併などで多くの隣接する市町村が合併したが、限界集落が現実になりつつある現在、緊急の政策として地の利を生かした隣接しない村同士で合併をできないだろうかと考えた。これは葛尾村に限った話ではなく、東京一極集中で日本中で限界集落が増加の一途をたどる現在、政策的に村の合併を進められないかという提案である。例えば、筆者の父の故郷である徳島県吉野川市の山中に、福島県の村ごと移村してもらうという、まあまずは荒唐無稽な案である。

この発想は、歴史も村の人びとの気持ちも踏みにじりかねない極端な仮説である。こんなことをはっそうするなんて村の人びとにまことに申し訳なく思う。時空を超越した自分の身体を集団としての人生を引き裂くような政策を誰が受け入れるだろうかと胸がふさがれる。

侃々諤々の夜、「一度、阿武隈山塊のいわき市に近い山中に、葛尾村を移転するという意見もあった」と聞いた。

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上の写真はたまたまいわき市内の山中をiPhoneアプリで検索したもので何の根拠もないことをお断りする。

 葛尾村と同じ風景はないこと、同じ植生もなく、引き継がれるべき歴史や文化がないことも承知の上の論である。ただ、原風景に重ね合わせられる新天地を工夫して作り出せるのではないか。かつてはこうして自分たちの生きられる土地を探して故郷を後にした民もいた。どこかに数千人をうけいれるような国有林はないものか。何十年もかけて新しい村を誕生させる可能性は限りなく零に近いかもしれない。ただ、いい加減な妥協案で村人が納得できるわけでもなく、未来をみすえないままだとどのような決着をつけてもやがては村は滅びるしかないだろう。

震災で家族や友人を亡くし、家屋田畑全てを失い哀しみや苦しみ、貧困にあえぐ人びとが今なお多く、今日現在まだ24万人もの仮設住宅住民がいるという報道を目にした。

福島には原発事故が故の悲痛が広がっているので苦悩は深く明日を期待できない絶望がある。政府は補助が少なくて済む帰村を進めようとしているがこれでは避難住民に四面楚歌を創り出すのみで何の根本的な解決には至らない。

例えば双葉郡で帰還困難区域、居住制限区域、準備区域の人びとが、希望者を募って、とある限界集落に移住して、村や町ごとに小さな集落を作り、神社仏閣も共に移住して新たな村作りを始めたらどうかと考えたわけだ。家屋や道路整備、自然エネルギーを利用した経済基盤作り、住民がある程度増えていけば医療施設やスーパーなどもでき、企業も入って雇用が生まれればやがては若者の移り住む、山間スーパーヴィレッジが構想されよう。また、中間貯蔵施設の建設と同時にこうした政策を発表できれば施設予定地に地権を持つ人びとも移住計画に賛同しやすいのではないか。

もちろん、移転費用、村々合併の交渉は政府と東電が責任を取る、これが出発点である。金目でしょ、などと言わないで、避難民が安心して生きられる時空間を提供することが何よりも大切な心のありようではないか。政府や東電にプランを任せても豊かな発想は期待できないので、建築家集団、政策集団、芸術家集団、企業グループなどが一体となって10年をめどに夢を共有していけば、本当の地方再生が実現していくのではないだろうか。

勝手な夢想を繰り広げてしまったが、これでひとまず「幻の葛尾村になる前に」第1部を終えたいと思う。みなさんの忌憚のないご意見をいただければ幸いです。

メールは、sugi-tyan@nifty.comへ、FBはhiroshi.sugimura.378で検索して見て下さい。

幻の葛尾村になる前に(12) 除染に終わりなし

葛尾村を全村除染するのは不可能というしかない。現場を見てどれほどの土、水、植物が汚染されているかが分かった。

東電が昨年2013年8月に福島原発で行われたがれき撤去時に大量の放射性物質が飛散して南相馬市の水田を汚染したことを認めたように、除染手つかずの帰還困難区域が残る限り、除染された準備区域もいずれ再汚染される可能性があることを忘れてはならない。

ところで件の侃々諤々の夜、筆者はあるアイデアを思いついた。1600人いる村人のうち500人の高齢者しか村に戻らないかも知れないとの悲痛な叫びがでたときのことである。

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もう一度皆が生きられる村にするために考えられることは2つしかない。その一つはミニ葛尾村計画である。

上の写真は以前にお見せした葛尾村マップの中心部拡大図である。三春町浪江町を結ぶ東西の街道と、浪江町津島地区と田村市都路地区を結ぶ南北の街道が交わる地点が葛尾村の中心部落合地区である。写真で分かるように村役場があり(現在は三春町に仮設村役場がある)、葛尾小学校、葛尾中学校の名が見える。しかしこの葛尾小中学校は子どもたちが帰村する見込みがないので廃校になる可能性がある。例えば500人が帰村しても、住民数から、スーパーはおろかコンビニさえ出店が難しいと予想される。診療所も再開は難しいだろう。

勝手な見通しを許していただきたい。このままでは居住空間を再構築するのは難しいのだ。いずれ若者が村に帰ってくることを夢見ながら、高齢者だけで細々ながらも歴史から村が消えないように維持していかなければならないだろう。しかし500人が元の自宅に戻っりばらばらに住んだのでは、コミュニティとしての村が機能しない。なによりご近所さんがいなくなればただ寂しいではないか。そこで、大まかではあるが、次のようなプランはいかがであろう?

1,居宅を移設新築するなどして村の居住地区を落合地区に集中させる。

2,医療施設、ミニスーパーは現在の村役場内に併設する。

3,葛尾小中学校を、芸術家が住んでアトリエとしても利用できるアートヴィレッジにするなど、開放する。企業に開放してもいいのではないだろうか?

4,村全体を自然エネルギー開放区にして、太陽光発電風力発電、水素エネルギー発電などを張り巡らせ、生産された電力を売電する。周辺地区に火力やガスによる発電所する可能性も考える。

5,中心地周辺に大規模なビニールハウスを建設して、安全な土を手に入れて汚染のない野菜や果物、花などを栽培する。

もうすでに企画されているプランがあるかもしれない。また、何を素人が、と馬鹿にされるかも知れない。それでも何かを考えざるを得ない切実な状況である。どうか読者のみなさま、稚拙な小生のプランにご批判をいただいたり、補助的なご意見をいただくなど、一緒に考えて下さるようお願い致します。

 

 

 

幻の葛尾村になる前に(11) 女たちの原風景

話は葛尾村の取材を終えた午後にさかのぼる。集会所で籠編みをしていたおばちゃんたちの話に混ぜてもらった。とりとめもない話の最中に窓の外を見れば、村の無料バスが到着して何人かのおばちゃんたちが降りてくる。「○○ちゃん、今日も村に帰ってたんだね」。「皆さんは除染がうまく進んで何年か後に帰れるようになったら葛尾村に帰りたいですか」と筆者。「帰りたいって言っても、まもなくここには住めなくなる、子どもがいねえから復興住宅には住めねえ、かといってこれから家は建てられねえ、戻りたいんじゃなく、戻るしかないんだよ」、「旦那が帰りたいって言うからね」、「何だって男は先祖伝来の土地を守らなきゃって、こだわるかね」などと屈託がない。聞けばおばちゃんたちは大体が葛尾村出身で、中には近隣の都路や津島から嫁入りした人もいるとのこと。目から鱗が何枚もバサリと落ちた。そうか、嫁に来たと言うことは、おばちゃんたちはそれぞれが実家を持ち、そこが忘れることのない原風景であり、夫の原風景とは違う景色を重ねていたのだ。特に田舎では、女は姓を捨て、実家を去り、家族とりわけ両親と別れて他人の家に嫁ぐのである。これで夫に愛されなければ、妻はよりどころを失い漂流する。生まれた子が生きていくにはいつの日か両親の元を出て他人と交わらなければ生きてはいけない。長男には相続して守るべき家があるが、嫁にはその責務が理解できないかも知れない。むしろ女たちは男たちの死にものぐるいの保守とは反対に、まごうことなく<アナーキー>である。男たちの虚構(フィクション)など眼中にない。そうか、そうだったのか、と筆者も思い知らされた。女たちは男の虚構をよそに、女同士でおしゃべりして、心を通わせ同情を寄せ合って見事に生き抜いている。集会室にさわやかな風が吹き抜ける、どうやら夕闇が近づいてきたようである。

 

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仮設住宅がそのまわりに点在する三春ダム。この風景にどれだけ心が救われたか知れない、と呟く人がいた。どこかふる里の風景に通ずるものがあるのだろう。

 人はなぜか満ち足りた日々を思い起こそうとはしない。今の私が惨めになる、からだろうか。むしろ、辛い思い出しか残らない原風景が思いもかけず突然甦ってくることがある。思い出したくないのに思い出してしまう。なぜか甘酸っぱく感じられる記憶と共に。そんなとき、なぜだかホッとため息をつくこともある。戻りたくはない、しかし、できれば人生をもう一度やり直せればなどと、と思うからかもしれない。

幻の葛尾村になる前に(10) 原風景

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動物行動学者ローレンツはハイイロガンの卵を人工孵化してガチョウに育てさせようとした。ガチョウが孵化させた雛はガチョウの親の後について歩いたが、ローレンツが自分の前で孵化させたところ、その雛はローレンツを追いかけるようになった。最初に見た動く物体を親と見なす習性を「刷り込み(インプリンティング)」という。

看護師さんは出産を終えた直後の母に生まれたばかりの子供をまず抱っこさせる。母と子の初対面だ。このとき子に母が刷り込まれるのだろうか?子にとって母は特別の存在である。子宮内で母と一つにつながり、身も感情も一体である。父のつけいる隙はみじんもない。かつてただ精子を提供したに過ぎない。身二つになっても子は母を追いかける。母は子の原風景であり、母と子は同じ宇宙を生きている。今生の別れに際しても子は母を思う。父はまず脇役である。

筆者は小さな町の生まれではあるが、教員である両親の転勤で生まれてすぐに山村に移り住んだ。3歳になるまで父母と祖父の4人で貧しい暮らしを続けたようだ。還暦を迎えようとしている現在、終の棲家としてその山村のあばら屋を選ぼうとしている。もちろん妻は「スーパーもない、病院もない、何もない」村には住めないから老後は一人で住んでくれと言う。むべなるかな。何のことはない、そのあばら屋が筆者の原風景、それだけのことだ。

東京で暮らすようになって40年近くになり、その間5回引っ越しをした。生まれた町には戻りたくないからと上京したにもかかわらず、東京を終の棲家とはしたくないからと考えあぐねたあげくにあの山村を選ぶしかないのは、冒険者を夢見て故郷を旅立とうとした青春時代の自分を思い起こすと、いささか情けないなとも思う。

葛尾村の男たちの誰もが村に帰りたいと思っているかと言えばそうではない。現実を見れば帰れないと思っている人も、どうしても帰りたいと思っている人もいる。共通しているのは「何で俺たちが村から離れざるをえなくなったのか」という理不尽さや、哀しみ、怒り、悔しさなどが解きほぐさないほどない交ぜになった複雑な感情である。その心の奥底には刷り込まれ、染みついた原風景としての葛尾村がある。ひやりとした空気、四季折々の空の色、懐かしい香り、せせらぎの音、こよなく愛した野菜や果物、何よりもごくごくと喉を鳴らして飲んだ水。これらは身体と一体になった小さな宇宙であり、まさに命そのものであろう。

 

 

 

幻の葛尾村になる前に(9)侃々諤々

子は親に従い、下のものは上の言うことにただ従う、そんな時代はもう過ぎ去ったのだろうか?誰もが自分の意見を持てるようにはなっている。ただ、それをきちんと相手に伝えるには、まず、人を傷つけずにきちんとものを言う訓練と、それでもなおおそれずに言う勇気を必要とする。昨今、面前で汚い言葉で吐き捨てるように人をののしるモンスターをたびたび街中で見かけるようになってきた。たまたまTVをつけても、政治家、映画監督、番組司会者、タレントなどが「毒舌」、「辛口」、「ご意見番」などの口実で世間に悪口雑言ををまき散らしている。言いたいことがあれば人目をはばかりその人に直接言えば良い。人に聞かれないようにする配慮がなければ心の傷は深くなる。

さてさて、7月30日に葛尾村取材を終えた夕刻、仮設住宅の集会所で侃々諤々の議論が開始、第一ラウンドの鐘がなる。写真は左から、東海林豊さん、松本政男さん、松本操さん、鈴木之夫さん。松本さんが誘い出して夕餉の時間わざわざ筆者のために集まってくれた。6時過ぎから11時半まで真剣でかつ愉快な酒席となる。

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東海林豊さん:葛尾村で農業を営んでいた。現在は松本操さんたちとともに交代制で無人の村をパトロールする「警戒隊」の隊員を務める。というのも、避難して空き家になった住宅に泥棒が入るからである。

松本政男さん:震災後1年ほどまで長く葛尾村村会議長を務めた。双葉郡八か町全体の町村会議の議長も務め、中央政界や官庁との交渉を数多く行ってきた村の重要人物。村では畜産を含む農業を営み、原発事故後村中の和牛300頭を基礎牛として疎開させる事業に奔走した。

鈴木之夫さん:この方だけは田村市都路地区の出身。震災後福島市の避難先から空き家のあったここの仮設住宅に移り住み、葛尾村の方々と共に暮らし、一人住まいである。

松本操さん:若い頃働いていた相模原市で、たまたま通りかかって目撃した火災現場でおばあちゃんを他の2人と共に救出したことがきっかけとなって後に消防士となり、震災前には消防署長として退官した。風貌とは異なり熱血漢である。

この4人の中で、松本操さんと松本政男さんの2人が夢追い人である。この2人に「そげなことでぎっこねえ」、「現実をちゃんと見てみろ」と夢をあきらめろと迫るのが東海林さんと鈴木さんである。筆者は幼い頃から今でもなお夢追い人を人生の目標とする。まわりの大人も仲間も「杉村さん、ちょっと待て。まずはできることから始めよう」、「現実を見なければ何も始まらんだろう」と羽交い締めにされてきた。かみさんからも「あんたはできないことをできると言い張る」とあきらめ顔で諭される始末。子どもにさえ「とうちゃん、それちょっと無理っぽくない?」などとだめ出しされる。かつて地域活動で「子ども会議」というのを主催していたことがある。子どもたちは言いたいことがあっても「親や先生が困るだろう」と思えば気に入ってもらえるよう自分の思いをぐっと心の奥にしまい込んでしまう。そんなとき、小学生や中学生には「ここでは何を話してもいいんだよ。でもね、誰かの名前を出して個人を傷つけることだけはやっちゃいけない」と教えてきた。子どもたちは、会議の練習をするとき、始めは自分の考えていることをどうやれば人前で話せるのかずいぶんととまどっていた。また、「学校でやってみたいこと、地域でみんなでやってみたいことを話そうよ」と言うと、「先生や親から「できないことをしたいって言うんじゃないよ」としかられるから言えないと答える。そこで筆者は子どもたちに、「現実をちゃんとみなさい」という大人は疑ってかかりなさい。自分ができないことが子どもにできるわけがないと大人は決めつけている、もしかすると君たちの方が大人にできないことを実現できるかも知れない、などとへりくつをこねくり回して子どもを応援することもよくある。現実をきちんと見抜いたうえで向かう先を求める人と、自分が歩いたらそこに道ができるんだという豪腕もいる。さまざまな異なる考え方の人がたくさんいて、互いにそれを受け入れていくしか今は道がない。

第一ラウンドは、松本操さんが葛尾村への帰村計画を話してくれたことでゴングが鳴った。このままだと村に帰のが高齢者だけになる、若い人はもう村に戻らない、どうやったら若い人が 村に戻れるようになるのかが一番の関心事だと語る、その深刻さが胸に突き刺さる。そこに東海林さんがやんわりと「できねえことばかりだ」と切り込んでくる。老人ばかりで元の村の再生などできるか、観光なんて言っても誰も来ないよ、除染してもすぐに元の木阿弥どうしようもないと、ネガティヴな意見のオンパレード。

すると、操さんが「やろうと思えば絶対何とかなる」、「いやなんねえよ」と東海林さん。そこに松本政男さんが「俺は一歩も引かねえからな」凄い形相で迫ってくる。おいおい福島県人は本音は言わない、言いたくても我慢するって聞いてたぞ。ここの福島県人は聞いた話とずいぶん違う、まるで松岡修三だ。鈴木さんも「よくよく考えてもどうやらできそうにないですね」などとと冷静に呟く。

「もう少しでうまくいくとこだったんだ!」。聞けば都路から葛尾村を通って浪江町から飯舘村まで延びる「あぶくまロマンチック街道」という観光資源開発が進んでいた真っ最中での原発事故だったらしい。「くやしい。くやしくって夜も寝られない」目が赤らんでいる。「先生よお、夜中にこの夢見て寝られなくなるんだ」。

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街道沿いに「あぶくまロマンチック街道」という看板が除染前の草ぼうぼうの道路脇にに立てられていた。果たせず散った夢のかけらである。

熱い二人と冷めた二人に囲まれて話を切り盛りしているうちに、「ところで、先生はどっちなんだ!」と双方から迫られた。「僕はこれまでも夢を追いかけてきたので、葛尾村が再生できると言う方に一票入れます」と答えた。今度は東海林さんが筆者にかみついてくる。「村に帰る人数は1600人のうち500人位だぞ、そんな村に誰が力を入れてくれるっていうんだ」、「それに、それぞれもともの集落にばらばらに住んだら、どうやって人とつきあって行けばいいんだ」、「先生よお、村の暮らしがどんなに貧しくて辛いのかわかるか!」、「いや分かりません。ただ、村に帰っても、元の農業もできない、ご近所さんもいない、スーパーもできないだろうから買い物もできない、病院もない、こんなことになったら暮らせないですよね」、とぼそっと答える。筆者も酔っぱらっていたので正確には覚えていないが、まあこんな感じで5時間が過ぎていった。別れ際に東海林さんと握手しようと手を差し出すとテーブル越しに筆者の肩をつかみ「先生よう、葛尾のこと論文にしてくれ」、「いや論文は嫌いです」、「何だっていいんだ、葛尾のこと書いてくれ、頼んだぞ」、「分かりました、帰ったら書き始めます」。今度は玄関先で抱き合った。「いろいろ言ったけどな、俺はやるときはやる」とじっと目を見据えて耳元でささやいてきた。胸が熱くなる、さんざんやりあった後で「頼む」と言われたら「やる」としか言いようがない。何より、よそ者でなまっちょろい筆者に、最後はきちんと和解して一緒に先に進もうと言ってくれた、その心の有り様に身体が震えた。こんな風にぶつかり合って仲直りできると、こんな年齢になってもなお、まだまだ学ぶべきことがある。

 

 

 

幻の葛尾村になる前に(8)「葛尾川(合唱)」


葛尾川(合唱) - YouTube

葛尾村役場ホームページで見つけた「葛尾川(合唱)」をシェアさせていただいた。

葛尾川の四季折々の映像に優しいメロディーと心温まる合唱が見事にマッチしている。

西から東に流れる野川と、北から流れ出た葛尾川が落合で文字通り落ち合ってやがて高瀬川渓谷となり太平洋に注ぐ清流、一体誰がこの清流を濁流に変えたのか、村人は気も狂わんばかりに怒っているだろう。放射能に汚染されているとは考えたくもない、信じたくもない悲しき現実。この川で子どもたちが魚釣りをしたり水浴びする日が来るのだろうか?

この中で紹介された村祭りの写真にさらに心が痛んだ。松本操さんにお聞きしたところ、原発事故前には小学校と中学校に合わせて180人位の生徒さんがいたとのこと。人口1600人の村から全村避難して、今後もしこの生徒さんが村からいなくなれば、大人と高齢者だけが住む超高齢化村となる。だからこそ松本操さんは、いつの日かこうした子どもや若者が住めるような村作りを夢見ているのだ。何か少しでもお手伝いできることがあるのだろうか。今はただこうして語り紹介することぐらいしかできない。

 

 

 

幻の葛尾村になる前に(7) 出会いの不思議

葛尾村の住民の8割方が「松本」姓であると松本操さんからうかがった。さらに残りの2割の住民は「松本」姓ではないものの松本との親戚筋に当たるとのこと。驚いた。まるで歴史小説の忍者ものに出てくるシチュエーションである。きわめて閉鎖的で独特の文化を持っていることだろうと感じ取った。「松本」姓が多いのは、かつて城替えがあったとき信州松本から家臣団や民が移り住んだからであるとのこと。したがって松本さんを松本さんと呼ぶことがない。「操」さんと名前で呼ばなければ通じない。なにせ人口1600人の村で1200人から松本さんがいるのだ。操さんに「村の人は全員知っていますか」、「もちろん全員知ってます」。言わば村が一つの運命共同体のように生き続け、独特な暮らしを守り、豊かな文化を語りつないできたのだろうと感慨にふけり、居住まいを正して操さんの説明に聞き惚れた。

操さんは永遠の夢追い人である。初対面の筆者に、どうやって村に帰れる環境を整備するのか、どうやって経済基盤、社会基盤を再構築して、かなわないかもしれないことは分かった上で<若者と共生できる村作り>を熱く語ってくれた。村作りを夢見て製作した三枚の模造紙を写真に撮らせて欲しいと頼み、炬燵の上に拡げた模造紙に描かれたイラストの写真を撮り始めた。くるくる丸まっていてなかなかうまく撮れない。すると、操さんは「これをあんたに渡すから持って帰って誰かに見せてあげてくれ」と再び丸めて筆者に手渡してくれた。沈みがちな表情のどこにこんな情熱が、どのような夢が潜んでいるのかと驚いた。また、見ず知らずの他人に、まだ1時間も話してもいない私に、「松本」姓ではなく異民の姓を持つ「杉村」にどうしてこの夢を託そうとしたのか、返す言葉もなく、胸がいつしか熱くなっていた。「この人のお手伝いができるかどうかはわからない。おそらくそううまくいく話ではない。しかし、この夢の描かれたイラストを誰かと共有できれば何かしらささやかなお手伝いができるかも知れない」と胸の内でつぶやき、握手をして分かれた。

渓流に咲き誇る紅葉が自慢だと「紅葉散策コース」を整備、「ニジマス塩焼食300円」、「牛乳一杯コース100円」、「野菜団地コース500円一袋」の3枚のイラストである。

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一見拙さそうに見えるが、丁寧に描かれていて、時にはユーモラスな印象を与える。2枚目は、ポールが立っているのでどうやらゴルフコースのようである。左上から、「クマガイ草コース」(クマガイ草とは、ラン科の多年草で、紅紫色の網目模様がある袋状の花弁が特徴的な花)、「ワラビ園コース」、2段目の左から「カタクリ草群生コース」、「モリアオガイル(森青蛙)コース」、「クリン草コース」(九輪草サクラソウサクラソウ属の多年草。山間地の比較的湿潤な場所に生育し、時に群生する)、

下の段左から、「スタート」、「アヤメコース」、「水芭蕉コース」と並んでいる。今回下見をしたところ、操さんが目論んでいたこのゴルフコースは現在立ち入り禁止地区になっていた。

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上から「太陽光パネル」、「もみじ街道」、「新しい農業」。太陽光発電は、村で自然エネルギーを生産して売電し、それを村の経済基盤にしたいという操さんの夢の一つ。

「新しい農業」には「ハウス農業で村おこし」とさまざまな野菜や農法がイラストで描かれている。

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筆者がこのブログを始めたのは、操さんと出会いによって、何か心の掛け金が外れて、よし始めよう、何とか知ってもらえるよう道を探すことからスタートだ、と思い立ったからである。

迷ったときいつも私を奮い立たせてくれる言葉がある。

「だからひ弱な魂よ、この前人未踏の荒地にこれいじょう奥深く踏みこまぬうちに踵をかえせ、先へ進むな。いいかいうことを聴くのだ、踵を返せ、先へ進むな」(ロートレアモン『マルドロールの歌』(栗田勇訳、現代思潮社、1972年)

C'est parti! (よし出発だ!)