幻の葛尾村になる前に(9)侃々諤々

子は親に従い、下のものは上の言うことにただ従う、そんな時代はもう過ぎ去ったのだろうか?誰もが自分の意見を持てるようにはなっている。ただ、それをきちんと相手に伝えるには、まず、人を傷つけずにきちんとものを言う訓練と、それでもなおおそれずに言う勇気を必要とする。昨今、面前で汚い言葉で吐き捨てるように人をののしるモンスターをたびたび街中で見かけるようになってきた。たまたまTVをつけても、政治家、映画監督、番組司会者、タレントなどが「毒舌」、「辛口」、「ご意見番」などの口実で世間に悪口雑言ををまき散らしている。言いたいことがあれば人目をはばかりその人に直接言えば良い。人に聞かれないようにする配慮がなければ心の傷は深くなる。

さてさて、7月30日に葛尾村取材を終えた夕刻、仮設住宅の集会所で侃々諤々の議論が開始、第一ラウンドの鐘がなる。写真は左から、東海林豊さん、松本政男さん、松本操さん、鈴木之夫さん。松本さんが誘い出して夕餉の時間わざわざ筆者のために集まってくれた。6時過ぎから11時半まで真剣でかつ愉快な酒席となる。

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東海林豊さん:葛尾村で農業を営んでいた。現在は松本操さんたちとともに交代制で無人の村をパトロールする「警戒隊」の隊員を務める。というのも、避難して空き家になった住宅に泥棒が入るからである。

松本政男さん:震災後1年ほどまで長く葛尾村村会議長を務めた。双葉郡八か町全体の町村会議の議長も務め、中央政界や官庁との交渉を数多く行ってきた村の重要人物。村では畜産を含む農業を営み、原発事故後村中の和牛300頭を基礎牛として疎開させる事業に奔走した。

鈴木之夫さん:この方だけは田村市都路地区の出身。震災後福島市の避難先から空き家のあったここの仮設住宅に移り住み、葛尾村の方々と共に暮らし、一人住まいである。

松本操さん:若い頃働いていた相模原市で、たまたま通りかかって目撃した火災現場でおばあちゃんを他の2人と共に救出したことがきっかけとなって後に消防士となり、震災前には消防署長として退官した。風貌とは異なり熱血漢である。

この4人の中で、松本操さんと松本政男さんの2人が夢追い人である。この2人に「そげなことでぎっこねえ」、「現実をちゃんと見てみろ」と夢をあきらめろと迫るのが東海林さんと鈴木さんである。筆者は幼い頃から今でもなお夢追い人を人生の目標とする。まわりの大人も仲間も「杉村さん、ちょっと待て。まずはできることから始めよう」、「現実を見なければ何も始まらんだろう」と羽交い締めにされてきた。かみさんからも「あんたはできないことをできると言い張る」とあきらめ顔で諭される始末。子どもにさえ「とうちゃん、それちょっと無理っぽくない?」などとだめ出しされる。かつて地域活動で「子ども会議」というのを主催していたことがある。子どもたちは言いたいことがあっても「親や先生が困るだろう」と思えば気に入ってもらえるよう自分の思いをぐっと心の奥にしまい込んでしまう。そんなとき、小学生や中学生には「ここでは何を話してもいいんだよ。でもね、誰かの名前を出して個人を傷つけることだけはやっちゃいけない」と教えてきた。子どもたちは、会議の練習をするとき、始めは自分の考えていることをどうやれば人前で話せるのかずいぶんととまどっていた。また、「学校でやってみたいこと、地域でみんなでやってみたいことを話そうよ」と言うと、「先生や親から「できないことをしたいって言うんじゃないよ」としかられるから言えないと答える。そこで筆者は子どもたちに、「現実をちゃんとみなさい」という大人は疑ってかかりなさい。自分ができないことが子どもにできるわけがないと大人は決めつけている、もしかすると君たちの方が大人にできないことを実現できるかも知れない、などとへりくつをこねくり回して子どもを応援することもよくある。現実をきちんと見抜いたうえで向かう先を求める人と、自分が歩いたらそこに道ができるんだという豪腕もいる。さまざまな異なる考え方の人がたくさんいて、互いにそれを受け入れていくしか今は道がない。

第一ラウンドは、松本操さんが葛尾村への帰村計画を話してくれたことでゴングが鳴った。このままだと村に帰のが高齢者だけになる、若い人はもう村に戻らない、どうやったら若い人が 村に戻れるようになるのかが一番の関心事だと語る、その深刻さが胸に突き刺さる。そこに東海林さんがやんわりと「できねえことばかりだ」と切り込んでくる。老人ばかりで元の村の再生などできるか、観光なんて言っても誰も来ないよ、除染してもすぐに元の木阿弥どうしようもないと、ネガティヴな意見のオンパレード。

すると、操さんが「やろうと思えば絶対何とかなる」、「いやなんねえよ」と東海林さん。そこに松本政男さんが「俺は一歩も引かねえからな」凄い形相で迫ってくる。おいおい福島県人は本音は言わない、言いたくても我慢するって聞いてたぞ。ここの福島県人は聞いた話とずいぶん違う、まるで松岡修三だ。鈴木さんも「よくよく考えてもどうやらできそうにないですね」などとと冷静に呟く。

「もう少しでうまくいくとこだったんだ!」。聞けば都路から葛尾村を通って浪江町から飯舘村まで延びる「あぶくまロマンチック街道」という観光資源開発が進んでいた真っ最中での原発事故だったらしい。「くやしい。くやしくって夜も寝られない」目が赤らんでいる。「先生よお、夜中にこの夢見て寝られなくなるんだ」。

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街道沿いに「あぶくまロマンチック街道」という看板が除染前の草ぼうぼうの道路脇にに立てられていた。果たせず散った夢のかけらである。

熱い二人と冷めた二人に囲まれて話を切り盛りしているうちに、「ところで、先生はどっちなんだ!」と双方から迫られた。「僕はこれまでも夢を追いかけてきたので、葛尾村が再生できると言う方に一票入れます」と答えた。今度は東海林さんが筆者にかみついてくる。「村に帰る人数は1600人のうち500人位だぞ、そんな村に誰が力を入れてくれるっていうんだ」、「それに、それぞれもともの集落にばらばらに住んだら、どうやって人とつきあって行けばいいんだ」、「先生よお、村の暮らしがどんなに貧しくて辛いのかわかるか!」、「いや分かりません。ただ、村に帰っても、元の農業もできない、ご近所さんもいない、スーパーもできないだろうから買い物もできない、病院もない、こんなことになったら暮らせないですよね」、とぼそっと答える。筆者も酔っぱらっていたので正確には覚えていないが、まあこんな感じで5時間が過ぎていった。別れ際に東海林さんと握手しようと手を差し出すとテーブル越しに筆者の肩をつかみ「先生よう、葛尾のこと論文にしてくれ」、「いや論文は嫌いです」、「何だっていいんだ、葛尾のこと書いてくれ、頼んだぞ」、「分かりました、帰ったら書き始めます」。今度は玄関先で抱き合った。「いろいろ言ったけどな、俺はやるときはやる」とじっと目を見据えて耳元でささやいてきた。胸が熱くなる、さんざんやりあった後で「頼む」と言われたら「やる」としか言いようがない。何より、よそ者でなまっちょろい筆者に、最後はきちんと和解して一緒に先に進もうと言ってくれた、その心の有り様に身体が震えた。こんな風にぶつかり合って仲直りできると、こんな年齢になってもなお、まだまだ学ぶべきことがある。